皆さん、こんにちは。HORIです。
今回は楽しい内容ではないのですが、記録のためにも、気持ちの整理をするためにも、記しておこうと思います。
というのも、2024年7月24日(水)の朝に母方の祖母が呼吸不全で亡くなりました。
とても長くなってしまいましたが、ぜひお読み頂けると幸いです。
祖母が亡くなってしまった原因
祖母は元から呼吸の状態が悪かったわけでも、肺や気管などに何か問題があるわけでもありませんでした。
89歳にもなっていたので、加齢による衰えはあったため、最近は歩くのがやっとで、
時折あの世との交信をしたり、転びやすかったりという問題はありました。
ただそれは、年相応のことだと思いますので、起こって当然のことだったと思います。
状況が大きく変わったのは、ここ1ヶ月の間のことでした。
1ヶ月程前に、祖母が自宅で転倒して頭を切ってしまい、緊急搬送されました。
命に別状はなく、特に重症でもなかったのですが、そこで尿路感染による感染症が発覚しました。
それによって、体調が芳しくなく、転倒の原因も感染症によって、身体の力が抜けて
しまったことによるものだったようでした。
それから緊急入院となり、しばらくは入院生活が続いていたのですが、恐らく感染症によって、口から食べ物を摂取することができなくなってしまいました。
口から食べ物を摂取できないということは、栄養補給もできなくなったということに
なります。
そうなると、胃ろうという選択肢もあったのですが、体力的なことを考えると、その
選択肢は難しかったので、点滴による栄養補給にせざるを得ませんでした。
また、入院はしていましたが、あくまでもそこの病院は一時的に受け入れているだけ
だったため、他の病院への転移か施設へ預けるか、自宅療養の3つの選択肢の内から
選んで、祖母をどうするのかという決断が早急に求められました。
結論から述べますと、訪問医と看護師とヘルパーと家族・親族で連携して、祖母は自宅療養することになりました。
自宅では、週に2~3回の200kcalの点滴だけでエネルギー補給をしていたので、身体はほとんど骨と皮になって、肩で息をしていたほど弱っていたようでした。
まさしく虫の息といった状態でした。
また、普段私たちは無意識で呼吸をしますが、その時の祖母は声を掛けてもらわないと呼吸が止まってしまう恐れがあるぐらい予断を許さない状態でした。
今回、祖母が亡くなってしまった原因も自力での呼吸をしなかったことでした。
みんなで祖母のお世話・お見舞いをした夏の日
祖母は叔母とともに暮らしていたのですが、叔母は働きに出ているため、叔母1人で
面倒を見るのは不可能でした。
そのため、往診医や看護師、ヘルパーが来られない間の時間では、叔母や母、おば
(叔父の嫁)たちでお世話をするという体制を取りました。
僕の母は週3で働きに出ていたのですが、それ以外の日は朝から晩まで、日によっては泊まりがけで面倒を見ていました。
祖母の家はそこまで近いわけでもなかったので、行き帰りの運転だけでも結構大変そうな感じでした。
それでも、祖母は自宅にいたいと思うだろうという、母と叔母と叔父の3人で決めた
ことだったので、そう決めたからにはしっかりと面倒を見てあげたいと思って面倒を
見ていたのだと思います。
祖母の余命は数ヶ月という診断をされていたので、そう遠くない内に死期がやってくると予感をして、親族たちがお見舞いに行っていましたが、僕は行くことができません
でした。
というのも、祖母の家は玄関の前に何十段もの急階段があったため、車イスごと僕を
持ち上げて移動するのはもちろん、そもそも僕を抱えて行くのがかなり大変でしたし、車イスと僕を分けて運んで行ったとしても、家の中はバリアフリーではないので、移動するのが困難であったため、断念せざるを得ませんでした。
LINEのビデオ通話をして、リモートでお見舞いをすることも考えましたが、向こうは息をするだけでも必死な状態だったので、それをするのも躊躇って結局断念しました。
そうして、僕が最後に祖母に会ったのはGW中に会った時になってしまい、最期になる前に会うことは叶いませんでした。
祖母に対する想い
祖母が亡くなってしまって、もちろん悲しいのですが、深い悲しみに包まれて、もう何もできないという感じというよりは、今まで当たり前に存在していた祖母が急にいなくなってしまい、まだ実感できないのもあり、喪失感やぽっかり穴が開いたような虚無感に襲われている感じです。
祖母が亡くなってから、まだ泣いていませんし、食欲も睡眠欲もあり、いつものように音楽を聴きながら過ごしていますし、普通に笑ってもいます。
恐らく、今回は急に亡くなったというよりは、1ヶ月前ぐらいから余命数ヶ月という
ことを聴いて、最近の状態も聞いた上で、そろそろ死期が近いのかもしれないという
予感がしていたため、ある程度の覚悟をしていたのかもしれません。
また、5年前に愛犬ロビンが亡くなった時は深い悲しみと喪失感の襲われていたのですが、今回は祖母といういつも傍にいる存在ではなかったということもあって、そこまで悲しみに暮れるということもないのかなと思います。
最後の前に直接会えなかったことは悔やまれますが、物理的にどうしようもなかった
ですし、まだ葬儀があるので、そこでしっかりお別れをできると思うと仕方なかった
のかなと受け入れています。
あと、最期に苦しまずに逝けたと知ってそこはとても安心しました。
なによりもそこが気がかりでした。
また、祖母の何もかもがなくなったわけではなくて、実体がないだけで、きっと今日もどこかで生きていると思っています。
あとは残された叔母が心配だったので、僕なりの方法でしっかりと元気づけて気遣ってあげようと思います。
祖母との思い出
祖母との思い出はすべてが鮮明に覚えているわけではありませんが、記憶の中で断片的にいくつかの思い出があります。
僕の中での祖母の一番古い記憶は、当時まだ健在だった90歳過ぎの曾祖母の面倒を見ている姿でした。
曾祖母は健康的ではありましたが、年相応のボケがありながらも、いつも僕を見るなり「けんちゃん~」とニコニコ嬉しそうに声を掛けてくれていました。
その度に祖母が「もう!早くご飯食べちゃってよ!」と𠮟っていた姿が印象的でした。
曾祖母の面倒を見るのは大変でストレスもあったかと思うのですが、そんな状況でも
お世話をしている祖母は生き生きとしていて、どこか楽しそうにも思えました。
また、当時家にいたヘッケルという愛犬のお世話もしてたのですが、このヘッケルが
よく吠えるわ、イタズラするわ、怒ると噛みつこうとするわで手のかかる子でしたが、そんな子のお世話も大変ながらもそれが活力になっていたのだと思います。
というのも、祖父は既に亡くなっており、曽祖母が亡くなり、ヘッケルが亡くなりと
お世話をする対象がいなくなるにつれて、急激におばあちゃん化をしていったのが目に見えて分かるほど衰えていったからでした。
茶色かった髪色も白髪になってしまって、背中もそこまで曲がっていなかったのに、
かなり曲がってしまったりと見た目にも変化はあり、どこか覇気がないような感じに
なっていました。
そんな風におばあちゃん化していっても、変わらないことがありました。
それは、僕といとこたちを含めた孫への愛情でした。
おばあちゃんの深い愛情
幼い頃から父の仕事の都合で、長いこと海外に暮らしていました。
小学生の頃の大半は海外にいましたが、一時期は現地校に通っていたものの、ほとんど日本人幼稚園・学校に通っていたので、日本の子どもたちと同じように日本の特撮系やアニメ、ゲーム、おもちゃなどは興味のある子どもでした。
そのため、当時愛読していたコロコロコミックや父方の祖母が録画して送ってくれた
ビデオテープで見ていたアニメ、その合間のCMなどで当時日本で流行っていたものをリアルタイムで知っていたので、当然リアルタイムで流行っていた物が欲しいと思っていました。
そんな僕のことを想って、祖母は近所のおもちゃ屋までわざわざ足を運んで、当時僕が欲しがっていたおもちゃが出る度に、僕が送ったファックスのリストを元にして買って来ては、海外の自宅にまで送ってくれていました。
普通なら1個だけとかこれは買えないとか何かと理由をつけて制限をするものですが、
そんなことは一切せずに何度も何個も好きなだけ買ってくれました。
日本に帰った時には、僕が好きだった物をいっぱい買ってくれていました。
どら焼き、ホームランバー、まきばの朝(ヨーグルト)などなど…。
すぐに飽きちゃったけれど…(笑)
そうやって、めちゃくちゃ僕を甘やかしてくれていました。
お年玉に至っては、社会人になるまでは毎年1万円もくれました。
そこまでしてくれていたのですが、当時は恥ずかしいという気持ちもあって、そこまで祖母にベッタリするタイプではありませんでした。
それでも、祖母はいつだって優しく微笑みながらも、「けんちゃ~んうふふふ」と笑い声混じりに僕に声を掛けて愛してくれていました。
僕が祖母をいじるようなことを言っても、「もう~」と言いながら笑ってくれました。
僕が日本に帰ってからは、一緒に愛・地球博へ遊びに行ったり、東京や横浜周辺の街へ出かけたり、一緒にご飯を食べに行ったり、お墓参りに行ったり、家に何度も遊びに
遊びに来てくれたり高校生ぐらいからは、1ヶ月に1回ぐらいのペースで会ってました。
大人になるにつれて少しでも祖母のためになればと思って、頻繁に会うことを躊躇い
ませんでしたし、毎年敬老の日には大好きなマグロを贈っていました。
そんな大人になってかわいげのない感じになっても、僕の歌声に対して「お上手~!」と優しく見つめながら褒めてくれましたし、「けんちゃ~ん」と声掛けてくれました。
「けんちゃんはいつまでもかわいい孫よ」と言ってくれました。
僕だけでなく、いとこたちに対しても優しく見つめながら抱っこしてあげたり、何度も会ったり、お出かけしたりと深い愛情を注いでいました。
それでも甘やかすばかりではなく、時には叱ることもありました。
僕が好き嫌いでわがままを言うと、「食べなきゃダメ!」と怒ったことがありました。
それがなんだか印象的でした。結局は許してくれましたが…(笑)
あの時食べられなかったトマトも克服できるように…なるにはもう少しかな?笑
最後まで自分を曲げなかった祖母
祖母はそこまで大食なイメージはなく、むしろ食が細いほうでした。
でも好きな物は若者と変わらず、マグロやチョコレート、ポテト、コーラ、ステーキ
などが祖母の好物でした。
さすがにここ1ヶ月は食事自体が無理でしたが、去年も今年の初めにも普通に食事は
していました。
80歳を過ぎてからもネイルをして楽しんでいましたし、嫌なものは嫌と頑なでしたし、痛みだけは「痛い」とはっきりした意思表示をしていました。
歳のせいにして食べなかったり、何かをしなかったりということはしなかったところが、年齢関係なしに自分の好きな物はやめなかったですし、意思が頑固なところが
ありました。
1ヶ月前ぐらいの入院の時や自宅療養の時でも、好きな物を食べたいと口に出していたほど食への想いはすごかったです!
背骨は曲がってしまっても、そこだけは曲がらなかったです。
そういう自分を曲げない姿勢がらしいなぁと思うのと同時に、僕もそういう考えなので、隔世遺伝でしっかりと引き継いじゃっています…(笑)
そういう考えでいるのは、遺伝のせいでもあると思いますが、筋ジストロフィーという進行性の病気を患っていることもあるからだと思います。
最後に
おばあちゃん、葬儀の時でもまた会うけど、とりあえずここに想いを綴らせてね。
僕はおばあちゃんのこと大好き!というわけではなかったけど、あなたがいなくなってしまってから、あなたのことを思い返すとやっぱり深い愛情で僕を見守ってくれていたんだなと気づいたよ。だから、どんな状態になっても、もっと一緒にいたかったなぁ。
死ぬほどたくさんおもちゃを買ってくれたし、いつでも優しく笑顔で「けんちゃん」と声掛けてくれたし、お年玉に1万円もくれたし、好きな食べ物もいっぱい買ってくれたし、ずっと変わらない愛情を注いでくれていたね。
僕が贈ったマグロにとても感動してくれて、ちゃんと味わってくれて嬉しかったなぁ。
僕の歌声を褒めてくれた時も、絶対お世辞だって思っちゃったけど、なんだか照れ臭くも嬉しかったなぁ。
本当はひ孫の顔を見せられたらなぁなんて考えていたんだけど、全然それは無理だったから、その代わりになるべく会っておこうと思ったよ。
最後にGWにフラワーガーデン展みたいなやつに行く時に少しだけ会ったね。
その時に撮った写真が僕はとても好きでした。おばあちゃんの笑顔好きだったな。
小さい頃からおじいちゃんがいなくても、おばあちゃんがいたから寂しいなんて思わ
なかったよ。ありがとう。
あの世では、ヨシおばあちゃんとヘッケルと先代のワンちゃんたちとおじいちゃんと
仲良く暮らしていてね。ロビンのこともよろしくね。ゆっくり休んでね。
最期の前に会えなくてごめんね。葬儀で絶対会おうね。
そこでちゃんとお別れしようね。とりあえず今までありがとう。
俺はいつでもおばあちゃんの孫です。俺はいつだって愛しています。
実体がなくて魂だけでも、あの世に行ってしまっても、一生愛しています。またね。
おわりに
みなさんもおじいちゃんおばあちゃんはそうですが、家族や親戚、友人たちなど大事にしている人たちと会える内に会って、生きている内にちゃんと想いを伝えて悔いのないようにしてください。
人間いつ死ぬか分かりません。
みんながみんな老衰で死ぬわけでもなければ、事故に遭わないとも限らないし、何も
起こらないとも限らないです。
だから、後でいいやじゃなくて、ちゃんと会いたい人には会ってください。
僕も父方の祖母をより大事にしたいし、もっと会っておきたいと思います。
それではまた、サヨナラです。
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