皆さん、こんにちは!HORIです。
ここらで僕の病気について語ろうかと思います。
↓自己紹介については、こちらをご覧ください!
病気について
初めの記事でも書いた通り、僕は筋ジストロフィーという病気にかかっています。
筋ジストロフィー(以下筋ジスと略)というのは、進行性の難病です。
筋ジスと一言で言っても、様々な種類(型)があるようで、僕の場合はデュシェンヌ型という筋ジスの中でも一番重度な型になるようです。
なんとなく発症する原因は分かっているみたいですが、まだまだ完治する病気ではないみたいです。
主な症状としては、全身の筋力の衰えとそれに伴う合併症などがあります。
最初は足からきて、次に手、そして全身といった感じで進行していく感じです。
身体が曲がってきたり、飲み込む力が弱くなったり、肺活量がなくなってきたりと、
他にも様々な部分で病気の影響が出てくることもあります。
割りと普通だった幼少~小学生時代
僕がこの病気になったのは、生まれた時からのようでしたが、何も生まれた時から筋力が弱かったわけではなく、赤ちゃんの頃は普通で、歩き始めるのが遅かった程度で特に大きく何か違いがあるわけではなかったようです。
ちなみに自己紹介でも話した通り、生後半年から海外生活でした。
当の本人である僕はどう感じていたかと言うと、物心がついてから小2ぐらいまでは、「なんだかやたら歩くのが疲れるなぁ」と感じるぐらいで特に違和感もなく普通の子供でした。
病気のことはよく分からず、小3の時には親には足が弱い病気だと教えられました。
小3からロンドンでの生活が始まり、新しく日本人学校で通うことになり、親の方からみんなに説明はしてましたが、普通の学校だったので、特別に接してくれたわけではなく、スポーツ系以外は普通に遊んでました。
小学生だったので、よくお互いの家に行き来して遊んでいたということも普通でした。
学校の行きと帰りは常に母が一緒で、たまに学校に顔を出すこともあったので、うちの母は僕の友達の間では「ホリママ」として友達のように仲良くしていましたw
症状的には少し転びやすい・走れない・運動できない・歩きにくいという感じでした。
日本に帰るまでは、海外の病院で診てもらったり、年1回は日本へ一時帰国して神戸の方の病院で診てもらったりという感じでした。
状況が大きく変わった小学6年生
状況が大きく変わってきたのは、日本での生活が始まった小6からです。
この頃は車イスに乗り始めて、学校は普通の私立ではあったものの、病気のある子と
していわゆる障害者として接してもらう感じでした。
ですが、障害者だからと言って、特別扱いせず、極力体育系関連にも参加できるようにしてくれてましたし、変に優しくされたりということはなく、割りと普通に接しては
いたと思いますし、遊ぶのも割りと普通だったと思います。
トイレは連れて行ってもらったら、自分で移って用を足してました。
送り迎えは毎日行きも帰りも母が車で送り迎えしてくれました。
この頃は短い距離であれば掴まって移動したり、イスはソファーには自力で座ったり、床は腕の力で足を引きずって移動したりしている感じでした。
そして、新たにロビン(ワンちゃん)という家族が増えました。
悩みに悩んだ中高生時代
大学まで一貫の学校だったので、そのまま中学に上がり、そこからはほとんど車イスで過ごすことが多く、トイレは先生方に座らせてもらわないとできなかったり、階段での移動があるときは先生方がおぶって、車イスは生徒が運んで行く感じでした。
僕自身は、ようやく新しい学校に慣れてきたという感じでしたが、周りとの違いが出てきて、病気のことがコンプレックスに感じてきて、仲良い人の前では割りと本当の自分を出せたけど、タイプが違う人や女子にはすごく接しづらいと思ってました。
それでも話してくれる人やかわいいと言う人はいましたが、仲良くなれなかったです。
この頃になれば、外で遊ぶようにもなると思いますが、当時は介護パンツなんて使っていなかったし、親が介助をしてくれていたので、自由に外で遊ぶのは難しかったので、親がいないとどこにも行けない、できないことが多いという感じでした。
中学までも高校でも同じような感じでした。むしろ加速したかもしれませんw
でも、僕自身も周りも気遣って、どうしたらいいか分からなかったのかもしれません。
トイレは失敗することがあり、授業に少し遅れて気まずくなこともありました…。
今になって思えば、中学の頃も介護パンツを使えばよかったと後悔しています…。
そうしたこともあり、この頃はネットで仲良くなった人もいました。
高2の夏には、側弯症という背骨が曲がってしまう病気があったので、背中を真っすぐにするために背骨にチタンの棒を入れる大手術を受けました。8時間かかりました。
初の手術で、術後はICUにいたので、かなり心細かったことを今でも覚えています。
親は毎日お見舞い・介助しに来てくれたましたし、友達もお見舞いに来てくれました。
夏休み明けに、手術したことを先生が伝えてくれましたが、反応はかなり薄かったことを覚えています。そりゃ、反応しにくいよな…w
この頃には自分で移動することもできず、日中は車イスに乗る生活になっていました。
ただ、この頃からは症状の変化はかなり緩やかになりました。
華やかな?大学生活
大学生になってようやく、介護パンツを使うようになったのですが、初めは失敗をしたものの、慣れてきたらトイレの心配がなくなって、かなり行動範囲も広がりました!
周りの人も普通に接してくれることが多かったので、病気へのコンプレックスもかなりなくなり、以前よりは過ごしやすく、かなり楽しいと思えるようになりました!
まだ女性と接するのは抵抗があったけど…💦
この頃は親の送り迎えはさすがになくなったものの、介護パンツの交換や講義の合間に一旦家に帰るといったこともあったため、そういった面でのサポートはありましたが、それまでよりはかなり負担が減ったと思います。
20歳になってからようやくヘルパーも利用し始めました。
シャワーやお風呂は今まで親がやっていましたが、それがなくなってからかなり負担が軽減されました。
好きな音楽の幅も広がって、ライブに行くこともかなり増え出して、初めてのフェスにも行きました。
移動支援も使えるようになったのが、すごく大きかったです。
ネットで仲良くする人もちょこちょこいましたが、長く続くことはありませんでした。
活発的になった社会人時代
特例子会社に新卒で入社して社会人になってからは、初めは朝の準備は親にやってもらっていたりしていましたが、ヘルパーが入る時間が増えてからは、たまのトイレぐらいしか親にはお願いすることがありませんでした。
日中は介護パンツを履きながら仕事をしていて、障害への理解は十二分にあったので、煩わしいことはありませんでした。
お昼休みにボランティアの方が尿取りパッドの交換をしていて、お腹が痛い時には親に来てもらってトイレの移動をやってもらってました。
お金を稼げるようになって、社会人生活のためにペルモビールという大型の電動車イスを使うようになってから、欲しい物をたくさん買ったり、ライブの頻度が増えたり、
夜の街へ遊びに行ったり、たまに友達と飲みにも行ったりして行動範囲は更に広がり、できることも多くなって楽しかったです。
コロナ禍になってからは、すぐにリモートワークが始まって、初めの頃は親のサポートがありましたが、コロナ禍を機にヘルパーに来てもらう頻度を更に増やし出したので、そのおかげで今では毎日ヘルパーに来てもらえるようになりました。
リモートワークでは音楽を聴きながら仕事ができたので、以前より捗るようになって、仕事ができるようになっていました。
社会人引退への道
初めは働けることに対して喜びを感じてはしたが、社内の評価制度に疑問を抱き始め、
なかなか友達と時間が合わずに会えなくなり、1年の大半は長時間労働をしていると、
「このままで人生楽しいのかなぁ…」と思うようになりました。
転職するにも難病を抱えているとなると大変な上、結局働く会社を変えたとしても、
同じ思いをするんじゃないかと思って、なかなか何も行動できずにいました。
そうしたことで、ストレスのはけ口を女性に向けるようになったのかもしれません…。
好きな人ができても、病気のせいで諦めたり、叶わなかったりという経験ばかりして、夜の街へ遊びに行ったり、ネットで騙されたり、必死で繋ぎとめようとしたりなどなどと良くない方向に走ってしまうことがありました。
そこで起こってしまった問題がかなりのストレスとなって、社会人生活でのストレスとぶつかって仕事を辞めるまでになってしまいました。
しかし、そこからは仕事のストレスから解放されて、あちこち遊びに行ったり、念願のハワイ旅行に行ったり、ゲームをしたり、映像作品を見たりするようになってからは、かなり精神的ストレスがなくなって、本来の自分を取り戻せた気がします。
症状的には筋力の低下によって身体が傾いてきて、夜間に呼吸器をつけていないと、
消化が悪くなったり、日中たまに眠くなったりするようになりました…。
ですが、そこまで悲観的になるようなことでもないです。
なるべく身体が動く内に、これからはブログ更新やYoutubeへの動画投稿などなど、
どんどん新しいことをしたいと思いますので、これから応援よろしくお願いします!
それではまた、サヨナラ!
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